2014/9

9/29

先々週末に続き、先週末も波予報が良かったので、よっしゃ土日全サーフィンスキーム発動やー 

と、また例のドイチェ香具師と行って参りました。 

今回はバークレイズのトレーダーという香具師も来ており、2人でガチネイティブアメリカントークを 

炸裂させるので今の私のスキルでは太刀打ちできま10。何とかついて行けるのは相場とサーフィンと 

スノボの話のみですわ。 

初めてニュージャーズィーのビーチ(Asbury Parkというところ)に行きましたが、まあロングアイランドと 

似たようなもんです。最近なぜかこの季節にしては暖かく、この土日もフツーに”海日和的な”天気で 

ビーチも「え?真夏?」ってくらいに意外と賑わってたわけですが、翌日曜日の波予報が急にダウン、 

実際当日ネットのカメラ見ても駄目そうだったんで行きませんでした。全サーフィンスキーム敗れたり・・・ 

と、相当なmyしょんぼり具合にピーカンの日曜日をダラダラ家で過ごしてしまいましたが、何とか滑り込み 

で友人夫妻の家でご飯をご馳走になるという楽しい夜のイベントを創出でき、もとい、していただき、 

平和に週末終了と相成りました。 今週も頑張っていきましょー。 

 

 

9/24

以前ここで書いた車の免許の件ですが、先週路上試験があり、無事ゲットしました。 

路上試験は混んでいるらしく、8月に講習を終えてから予約できたのが9月中旬と、けっこう待ちましたわ。 

落ちるとまた1ヶ月くらい待たなあかんとのことで、これは絶対受からんとー! と気合入れた矢先、 

いきなり左側を逆走。 

・・・走り始めた時はそりゃ一応注意してたんですがね、道曲がった瞬間身体が勝手に。 

長年の癖はなかなか抜けないもんすな。 

でもこれは試験前の練習期間(40分)なのでノープロブレム。気を取り直して再スタート、 

よっしゃー順調やでー と油断してまた逆走した時にはさすがに教官(例の70代のおっさん)から 

「おお、なかなかお前すげーな」等というコメントを頂きました。 

その後助手席はアメリカンの試験官に交代し、緊張の試験本番。 

とりあえず右を走ることだけをまずは意識。縦列駐車とUターンという課題をこなし、スタート地点に戻る。 

「ンー、コングラッチュレイションー」と試験官。 

この間わずか5分程度。早ぇ・・・。  

あっけなかったですが、とりあえず合格できてよかったです。 

かように瞬殺な試験がなぜ1ヶ月待ちなのかはGod only knowsなんでしょうか。

 

 

9/23

先週末はこちらに来て初めて、土日両日サーフィンという夢のスキームを実現できました。 

茲許何故か週末に限って波あかんわー・・・ってなことが多く、 

土日両方行くぞ!なんてな事はまずなかったのですが、今週末は久しぶりに良かったんです。特に日曜。 

今回は両日とも某ドイチェのトレーダーの友人と車で行きました。彼は日本語も相当話せます。 

でも完璧ではなくてですね、今回もしきりに「悪くはない」と連呼しておりまして、「アソコ、ナミ ワルクーハナイ」、 

「キョウ ワルクーハナイ」「ウン、ワルクーハナイ」 ・・・と、「おい、たまには『良い』って言えよ」と突っ込みたかったですが、 

突っ込めませんでした。ここではむしろ僕のほうが外人ですから謙虚にいかんと。 

そんな彼も日曜の昼間のベストコンディション時には「ウヒョーサイコー!」と狂喜乱舞しておりましたが。 

確かに日曜は最高で、休憩なしでがっつり4時間程やったところ最後は頭フラフラ、腕動かなくなりましたわ。 

「オー カラダ ツカレテールナ」と彼も燃え尽きた様子。 

両日とも夜はそれぞれマソハッタソとブルックリソで飲み会と、なかなかリア充な週末となった希ガス。 

というのも健康あってのものでして、前の週末は絶不調だった体調が元に戻ったことに感謝です。 

何となく米国の水や空気?に体を蝕まれていた感も常にあったのですが、ここにきてようやく心身の 

適用が完了したのか、全盛期の体力を取り戻したんちゃうかなという雰囲気。

 

 

9/17

ドル円は一気に上昇、108.55なうですが、特段FOMCでサプライズがあったわけではなく、FOMC前に一旦ロング 

ポジションを落とした短期勢が再びポジション作ったってな感じだと思われま。売る人もいなさそうですしね。 

さて、今日は仕事も忙しかったし特に書くことがないかなーというところ、かなり前の

話題となり恐縮すが、

実は私夏のボーナスで電子ピアノを購入しておりました。 

以前持っていた物は引っ越しの際に後輩に飲み代一回分で売ってきたんですが、東京にいた時よりも 

こっちに来てからのほうが自宅にいる時間が長く(あまりに外をほっつき歩いてると物価の高さで金がなくなる恐れがある為)、 

暇な時間が増えたので、やっぱ買ったほうがいいんちゃうかなと。 

ネットを調べてると、最近のは凄いんすね。 え?どーゆーこと?鍵盤が木でできてるやつとか・・・ 

これは確実にマストバイやろ!? とアマゾンで購入。2000ドルしましたが、充分ペイするくらい調子いいす。 

(ちなみにヤマハのCP4っていうモデルです) 

 

 

 

9/15

お久しぶりです。多忙による疲労だったり先月末から連休をいただいていた関係もあり、 

かなり空いてしまいました。その間にドル円は107円台すわ。 

BTW、私日経新聞のスポーツ欄は滅多に見ないんですがね、本日(9/15)付けの 

阪神が奏でる9月の哀歌」等というその何とも哀愁漂う記事は思わず読んでしまいましたわ。 

内容についてはそのままで、阪神9月弱過ぎワロタ的な特にオチもないものなんですが、一応イチファン 

としてはジンクスに負けず頑張って欲しいもんですな。 

まあそれでも今世紀入ってからの阪神はマシなほうですけどね。90年代はそれわそれわ凄惨たる貧弱ゥぶりでした。。 

最近は野球自体全く見てませんが、実家にいた高校生くらいまでは割とテレビで見てまして、 

as u knowまさにその時阪神暗黒時代真っ只中やったわけです(下に出てくる新庄のヒーローインタビュー 

明日も勝つ!」もリアルタイムで見てました)。 

アンサイクロペディア阪神の記事がけっこう面白いのご存知でしょうか?為念載せておきます。 

なかなかワロスですが特に赤字部分笑いました。なぁ関西の人、これわかるやろー? 

<以下転載> 

阪神タイガース 

球団創設以来、期待させるだけ期待させといて大一番でズッコケる伝統を見せてくれる集団である。(中略) 

なお、お馴染みの「猛虎打線」の意味だが、「もうここら辺でいいかげん打ってくれ打線」の略称であるのは言うまでもない。 

(中略) 

暗黒阪神 トホホ伝説  

吉田第2期監督時代の終わりである1987年から野村監督時代が終焉する2001年までの15年間で、 

最下位10回に対しAクラス入りは僅か1回。これでもチーム順位とは別に球団のヒーローにでも注目できるのだったら、まだ救いもあった。 

しかしこの15年に及ぶ阪神暗黒時代は、藤村のオッちゃんは おろか江夏や田淵がいた頃のような楽しみすら全く無い、空虚な時代であった。 

下に記したのは大暗黒時代(1・2期両方を含めて)における諸種エピソード、そのほんの一部である。 

3連戦のうち1試合は勝つと思って3試合のチケットを取ったら、3試合とも完封負けだった。 

・9回表を終えて5-0でリードしていながら、9回裏だけで6点を奪われてサヨナラ負けを喫した。 

バースの再来・バース2世と評され、全く活躍せずすぐ帰国してしまう外国人選手が毎年きた。 

・ファン感謝デーで、2軍選手がたけし軍団と試合をやって負けた。 

・ファンは完全に悟り、負けることを前提として試合を楽しみに来ていた。そして勝った時は猿の如く馬鹿騒ぎし、球場周辺は無法地帯と化した。 

・負け試合を見に行ったことを「芝生鑑賞」「高校野球の下見」「西宮小・中連体の下見」と呼んでいた。 

・「二度と来るか」と暴言を吐いて球場を去った観客が、翌日も変わらず球場へ試合観戦に来ていた。 

・試合途中からテレビ中継が始まったとき、既に阪神の先発投手は降板していた。 

・シーズン中、3日に1回はファンを辞めようと思っていた。 

1回の攻撃、1番和田豊の応援歌を歌い始めた時が、試合で一番楽しい時だった。 

・甲子園に来たときの一番の楽しみは、トラッキーのパフォーマンスだった。 

・周囲がまだ半袖の時から始まるストーブリーグ。それもまだ着始めた頃。  

高校野球常勝で知られるPL学園より弱いと、毎年のように騒がれていた。 

・そのおかげで、「最下位はサッカーリーグのようにPL学園とリーグ入れ替え試合を行え」という冗談が冗談に聞こえなかった。 

・G党アナウンサーは1985年、「阪神の好調はハレー彗星(の到来)と同じくらいの珍事」と言ったが、それが真実に思えた。 

・毎日のように負けていたので、デイリースポーツは大本営発表もどきの報道をした。2連勝でも「破竹」扱いされた。 

・前日に3回持たずに降板させられた先発投手が、翌日には6回から敗戦処理として登板していた。 

・ヒーローインタビューで新庄剛志が「明日も勝つ!!」と発言すると、次の試合から怒涛の12連敗。 

・絵馬や短冊に「阪神優勝」を書き願う人がいた。「優勝はしなくてもいいから5位になってくれ」というものもあった。 

・父親に阪神が弱い理由を尋ねたら、「阪神だから」と一蹴された。 

・読売巨人戦で3タテすると、半年間はその話だけでファンが盛り上がることができた。 

東京スポーツに「(評論家によるセリーグ最下位予想で)阪神1位」と書かれた。 

・1992年の2位を「準優勝」、最下位脱出を「セリーグの5本の指に入った」、最下位を「6位入賞」ないし「定位置」と呼んだ。 

・序盤で一時的に首位となった時、それに最下位を抜ける度ごとにファンが道頓堀へ飛び込んだ。 

・やけくそで1998年4月1日に監督が「阪神優勝!」というエイプリルフール記者会見をしたが、その年も最下位だった。 

・ファンが球団に抗議するため、応援を一時やめてしまった。スタンドはほぼ無人状態となった。